カテゴリ:小説のようなもの(自伝)( 29 )

2006年 10月 05日
忘れられない日
きょう、10月5日は26年前の1980年、家族で夜逃げした日です。
去年も書いたから、多くは書きませんが。
(過去記事読んで下さい)
今だに鮮明に覚えてます。
思い出したら、涙ぐんでしまいました。
「もう26年も経ったのか」と。
きょう、夕方おかあから電話ありました。
「最近おかあちゃん、歩くのも少ししか歩けないから、西伊豆の実家引き払った方がいいか?と思うけど、ひろしくんどう思う?おにいちゃんにも聞いた方がいいかな?」と。
僕は実家を引き払われたら、帰る所がなくなるから、「そのままでいい!」と言いました。

昼間の仕事でへとへとになってるのに、今夜もバイトでした。
11時で上がらせてもらいました。
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by gohonngigoro | 2006-10-05 23:34 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(0)
2006年 07月 05日
3年前も雨だったような?
きょう仕事で10時の休憩で外に出てたばこを吸って外を眺めていたら、雨が降っていて、ふと3年前のおとうが肺がんで亡くなる前を思い出しました。
「3年前も雨降ってたな〜」と。
前にも書いたけど、また書きます。
亡くなる3日前におねえから電話があり、僕は急いで新幹線で順天堂伊豆長岡病院に駆けつけました。
個室に移ったらもう長くないと聞いてたので。
おとうはもうその時、話す事も出来ずに首を縦か横に振るくらいしか出来ませんでした。
でも僕が病室に行くと、おとうは意識がもうろうとしてても、ニコッと笑顔で返事してくれました。
入院して1ヶ月くらいで、その間おかあは毎日家からバス、電車、バスと乗り継いで病院におとうの看病に来てたので、おかあの身体も心配でした。
7月4日は東京のおにい、沼津のおねえも来て、遂にダメか?と思ったんですが、なんとか持ち越してくれて、おにいはそのまま見舞って一旦東京に戻り、おねえも沼津に帰り、僕とおかあも実家に帰りました。
翌日(7月5日)、僕はおとうの車を運転しておかあを乗せて病院に行って、その日は病院に泊まりました。でも個室には看病用のベッドが一つしかないので、そこにはおかあが寝て、僕は駐車場の車の中で寝ました。7月でまだ梅雨も明けてなかったので、エンジンをかけてクーラーつけて、寝心地の悪い状態で寝ました。
翌朝(7月6日)病室に行ったら、おとうも目を開けてたので、僕は「昨日は駐車場の車の中で寝た」と言うと、おとうはニコッと笑顔になりました。
おとうも小康状態で容態が安定してたので午後2時か3時くらいに、おかあと僕は、「おとうもしばらく落ち着いてるから看護婦さんに任せて帰ろう」となって、帰りました。
夕飯を食べ、風呂に入ってもう寝ようか?と思った時に病院から電話で、
「お父さんが危篤なので、家族の人はすぐに来て下さい」と。
夜の天城峠をおとうの車を僕が運転して、おかあと病院に向かいました。
この時も雨でした。
初めて味わう、この変な気持ちは僕もおかあも同じように感じてたと思います。
病院に着いたら、おねえ家族が一足先に来てました。
看護婦さんが、おとうの呼吸が何度か止まったので、注射して再び呼吸出来るように必死に延命処置をしてくれてました。
東京のおにいが来るまで2時間はかかるので、おにいに電話してなんとか引き延ばしてもらおうとしましたが、注射打ってもすぐに呼吸が止まってしまうので、おにいに再度電話したら、「もういいよ!」と。
おにいが病院に到着して、おとうと対面した時に死亡の宣告をするということで。
おにいが病室に来たら、しばらくして先生が来て、
「7月7日、午前2時25分 ご臨終です。」と。
おにいが到着するまでの間、僕はおとうの頬や足を触りました。
どんどん冷たくなるのを肌で感じました。
おとうが息を引き取った時、僕はなぜか?涙が出ませんでした。
人間が死ぬということは、こういうものなんだと唖然としてたというか、自分でもどう対応していいのか?わからなかったからです。
おかあは「おとうちゃん!おとうちゃん!」と言って泣いていました。
おとうは子供の前で人間が死ぬということを自分の身をもって僕らに見せてくれました。
霊柩車におとうを乗せ、実家までおにいが先導して、霊柩車にはおかあが乗って、その後に僕が付いて行きました。
午前3時か?4時くらいでした。
その時も雨が降ってました。おとうの涙雨か?と思いました。
兄弟で初めてやる父親の葬式。
初めてずくしの経験でした。
あれからもう3年が経とうとしてます。
おとうは今頃、天国のどの辺りにいるんだろう?
おとうの兄弟、おじいさん、おばあさん達と一緒に仲良く暮らしてるんでしょうか?

7月7日は仕事から帰って来たら、僕が住んでるアパートからお墓まで30分くらいなので、お墓参りして来ようと思います。





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by gohonngigoro | 2006-07-05 20:49 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(2)
2006年 06月 25日
実家から戻って来ました。
軽自動車で往復700キロはやっぱ疲れます。
また日記風に書いてみます。

6月23日(金曜)
岐阜の大垣インターに入ったのが午後11時でした。
伊豆の実家に着いたのが24日午前2時50分でした。
僕は高速走る時、いつも追い越し車線を走って、110〜140キロくらいで走るんですが、深夜はトラックが多いです。
しばらく走ってたら、前にBMWがとろとろ走ってて、追い抜きたいのに抜けれなくて、ちょっとの隙に追い抜いたら、軽自動車に抜かれてムカついたのか?ものすごい勢いで走って来て、追い抜かせてやりました。
浜名湖でトイレ休憩して、再び東名走ってたら、またそのBMWがとろとろ前を走ってて、思いっきり追い越してやりました。
外車に乗ってる人が国産車とかに抜かれるとやっぱムカつくんでしょうか?
沼津インターで下りて、沼津の街を通って、伊豆中央道路を走って。
昼間は有料なんですが、深夜だとスルーなので。
天城峠を越えて(天城越え)、低い所から山の上を通るので、いつものように耳鳴りがして。峠の所のコンビニに寄ろうと車から下りると、長時間座って運転してるので、身体が固まってました。腰も痛くて、肩も凝って。
いつものように大垣を出る前におかあには電話で「おかあは寝とればいいから」と言っておいたんですが、僕が家に入っていったら、丁度トイレに行ったばかりで起きてました。
コンビニで買って来たやきそばとおにぎりと半熟ゆで卵食べて。
おかあも一緒におにぎり食べました。
寝たのが3時半でした。

6月24日(土曜)
さすがに運転疲れで身体中痛かったです。
朝8時過ぎに玄関のチャイムがピンポン!と鳴って、おかあが出て行くと、
お寺の住職の奥さんで、「住職がぎっくり腰で寝たきりで動けなくて、明日来れそうにない」と。
うちの電話番号が電話帳に載ってないから、僕らが来る前に知らせに来たんだけど、僕はもう実家に帰って来てしまってたので、「申し訳ない!」と謝ってました。
すぐに東京のおにいにメールして、「これこれこういうことで、、、」と。
昼頃電話が来て、「住職来れなくてもそっちに行くから」と。
朝ご飯の味噌汁を僕が作って、おかあと遅めの朝ご飯食べて、僕はまた寝ました。
おかあと話してたらおかあが、
「おかあちゃんが台所で洗い物しとると、横でひろしくんが見とる気配がする」と。
僕は「おとうじゃないの?」と聞くと「ひろしくんや」と。
僕が幽体離脱してるのか!?僕の気が僕の知らないうちにおかあの元へ行ってるのか?
変な感じでした。
昼ご飯食べて、夕飯の買い出しに行きました。
おかあは身体がえらいと言うので、家で寝てました。
僕一人で町のスーパーに買い物しに行って、またいつものようにミツダ水産に刺身を買いに行く途中、商店街の所に後輩のドラムTがいて、僕が車の中から手を振ったら、ニコッとしてました。
夕方になり、おかあと晩御飯を食べて、また後輩達と山小屋のバンド練習場で合わせる約束をしてたので夜8時過ぎにギター持って行きました。
いつものメンバーとGWの時以来の再会で、またいろいろな曲を合わせました。
ドラムのT、ベースのS、ヴォーカルのK、ギターのYくんと僕で楽しくやりました。
ドラムのTが仕事の用で会議に行かないといけなくて、残った連中で11時半くらいまでやってました。
ギターのYくんに今回はCDラジカセ持って行って、僕がよくコピーしてたCDを聴かせてあげました。ゲイリー・ムーアの「大いなる野望」のCDに合わせてギター弾いて見せてやりました。
あとスライドギターも弾いてやりました。
オープンGで弾くのと、ノーマルチューニングで弾くのとか。
初めて見るプレイだったみたいで、勉強になったかな?Yくん!
その後いつものように地元の居酒屋でわいわい楽しいひとときを過ごしました。
バンドの話、お盆にやるライブの話(選曲)。
僕のSHAPES時代、THIRDSTONE時代の女性関係やら、、、。
Yくんにはちょっと僕のこれまでのイメージが変わってしまったかな?
バンドマンなんてそんなもんです。(笑)
ドラムのTも会議が終わって、遅れて合流して、結局帰ったのが午前2時半過ぎでした。
ほんとにみんな良い奴ばかりです。

6月25日(日曜)
8時過ぎにおかあに起こされて、無理矢理朝ご飯食べて、また僕は寝ました。
風呂入って、11時過ぎに沼津のおねえと、東京のおにいが嫁さんと二人で来ました。
うちは浄土真宗大谷派なので、おにいはおとうの戒名を京都の東本願寺に何万円か?お金出して綺麗な紙のやつに書いてもらったのを持って来ました。それをご仏前の前に置いて。今まで木に戒名書いた御位牌は、お寺に持って行って焼いてもらうそうです。
おとうの七回忌の時は、綺麗なやつに書いてもらったのを岐阜の春日のお寺に持って行ってやるとおにいが説明してくれました。
おかあと兄弟3人揃った所でご仏前には簡単にお参りして、みんなで外に昼ご飯を食べに行きました。
お寺の住職がぎっくり腰で来られなくなったので、おにいがお経でも読むのか!?と思ったけど、「簡単にお参りするだけでいいよ!」と。
兄弟3人とおかあが揃うのもそうあるわけではないので、天国のおとうもみんな来てくれたから喜んでたと思います。
昼ご飯食べてから、おかあもすぐ沼津のおねえの家に戻るので、おにいが食材買ってやろうか?と、スーパーに行きました。
たくさん買った食材は全部おにいがお金払ってくれて、それをみんなおねえの沼津の家に持って行くやつで。これで家計も助かると思います。
おねえもおにいに礼を言ってました。
おねえの所も子供三人いて、なかなか生活も大変なので。
次男(中1)も登校拒否でずっと学校行ってないし、旦那の仕事も収入が不安定で、おねえは朝から夕方までパートで働いて、おかあを病院に付き添いで行ったりで。
家に戻って、おかあと僕ら兄弟3人とおにいの嫁さんと他愛も無い世間話やら昔話とか話してました。おねえの旦那と三男も来て。
2時半くらいになって、そろそろ行くか?となって、みんなそれぞれ車に乗って。
そしたらおにいが「ひろしくんにこづかいやる!」と。
「高速代やるわ!」と。
1万円もらいました。
僕とおにいは7つ離れてるけど、やっぱおにいやな〜と、嬉しかったです。
厳しいおにいだけど、さりげなく弟思いで。
おにいの車が先導して沼津インターまで僕はおにいのあとを着いて行きました。
おねえの車はそのまま沼津に。
途中僕の前に別の車が入ってしまったら、おにいはその先で路肩に止めて待っててくれました。
携帯でおにいに「沼津インターの手前で、会社の人に土産買って行くから!」と言うと、おにいは「じゃあ俺そのまま行くから」と。
東名沼津インターの入り口で、おにい達車は東京方面へ、僕は名古屋方面へとそれぞれ別れて散って行きました。
兄弟がたまに集まるのもいいもんだな〜と思いました。
でも兄弟で先に死ぬのは末っ子の僕のような気がします。
なんとなく。
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by gohonngigoro | 2006-06-25 21:50 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(0)
2006年 05月 06日
また実家行って来ました。
3日の夜10時に車で岐阜の大垣から高速乗って、
西伊豆の実家に着いたのが4日午前2時でした。4時間かかりました。
軽自動車なのに時速140キロで駆っとんで帰りました。
昼間より夜のが高速道路も空いてるので。
ここからは日記のように書きたいと思います。

5月4日(木曜)
朝8時過ぎに起きて、おかあと朝ご飯食べるので僕が味噌汁作って食べました。
10時半くらいに町のスーパーに食材を買い物しに行きました。
実家に帰るたびに行くんですが、ミツダ水産という鮮魚卸屋にマグロとイカの刺身を買いに行きました。
観光土産屋の駐車場に車を止めて、おかあは車の中で待ってて、僕がミツダに買いに行くと、おかあと同じ町営住宅に住んでる店員の若い男の子が、
「おばさん、最近見ないですが元気ですか?(笑)町営住宅であまり見ないので」と。
僕、
「最近は沼津の姉の所に行ってるのが多いので、盆正月やGWとか僕が帰って来る時だけいるんで。」
なんて会話をしながら、刺身を包んでくれました。
気のやさしそうな子でした。
僕も盆正月GWに必ず買いに行くので、いつの間にか顔を憶えてもらいました。
刺身をもらって、車の所に戻ると暑かったので、土産物・食事出来る店でソフトクリームを売ってたので、おかあに「ソフトクリーム食べる?」と聞くと、「食べたい」と言ったので2個買って車の中で食べました。
僕もおかあも久しぶりにソフトクリームを食べました。
僕の車のガソリンがなかったので、生前おとうがよく利用してたガソリンスタンドに寄って満タンに入れて、そこのおばさんがおかあを見るたびに「元気出しなよ!良い息子さんがいつも来てくれるからいいね〜」と。
会うたびにそこのおばちゃんは、おかあを励ましてくれます。
長年その町に住んでた故の人情味というか?生前のおとうの人柄で僕ら親子も良い印象を持ってくれてるみたいです。
その後家に戻り、おかあが「ゴーヤチャンプルが食べたい」と言うので僕が作ってやりました。昼ご飯食べて、しばらくしておかあと昼寝しました。
風呂に入りさっぱりしてた夕方、後輩のドラムやってるTから電話があり、
「今晩山昇りますか?」と。
山小屋の練習場で合わせるか?という意味で。
「じゃあ8時半ということで」と言って電話を切り、晩御飯の支度して食事を済ませて山に昇りました。
正月に合わせた以来でベースのS、ドラムのT、若いギターのYくん、
そしてヴォーカルのKと久しぶりにバンドで合わせました。
WHITESNAKEの「CRYING IN THE RAIN」「BAD BOYS」AC/DCの「BACK IN BLACK」OZZYの「CRAZY TRAIN」LOUDNESSの「SOLDIER OF FORTUNE」「CRAZY NIGHT」「DREAM FANTASY」「アレスの嘆き」EARTHSHAKERの「RADIO MAGIC」、
後輩達のオリジナル曲2曲。
合わせた曲数えたら12曲くらいありました。
僕が昔作った曲の「Believe In You」もやりました。
2時間半くらいやって、いつものように山を下って町の居酒屋に行ったら、いつも行く居酒屋がGWだからか?満席でいつもと違う居酒屋に行った。
他愛も無い話をわいわい話しながら、家に帰ったのが午前2時でした。

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5月5日(金曜)
朝10時頃目が覚めて、昼ご飯をおかあと食べて、ごろごろしてたら天気も良いので、おかあを連れてドライブしに行きました。
黄金崎という所に行きました。でもおかあは歩くのがえらいから車の中で待ってるというので、僕一人で断崖絶壁の所を観に行きました。


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その後家に帰ってから、前日後輩達と話してたら、3月にライブやったビデオがあるので、ベースのSの家に見せてもらいに行きました。
Sと音楽の話やら仕事の話やらいろいろ話しました。
みんな大変だな〜と思いました。自分もですが。
Sは30歳でバンドを通じて、僕と知り合ったので僕のことを慕ってくれて僕も嬉しいです。
後輩達も所帯持ってたり、仕事だったりそれぞれの生活があるにもかかわらず、今夜も山昇ってバンドで合わせられるか?となって、結局昨夜に引き続き山小屋で合わせることになった。
ヴォーカルのKは都合悪くて来れませんでしたが、他のメンバーは来れたのでまた合わせました。自分でもよくやるわ〜と思いました。
まさか2日連チャンでバンド合わせるとは!?(笑)
それだけ後輩達もたまにしか僕が帰って来ないので、合わせられることが嬉しいようで、僕もそう思ってもらえて嬉しいし、楽しいです。
ギターのYくんは前に一緒にバンドやってたGの子も連れて来て、あとドラムのTの昔ちょこっとドラムを教えてた女の子も見に来て。
バンドで遊んで、また毎回行ってる居酒屋に行って、あれこれと音楽の話とかわいわい話しました。
ドラムのTは35歳、ベースのSは30歳、ギターのYくんは24歳、女の子も24歳とかで全然学年が違うのに、音楽を通じてなんとも不思議な巡り合わせで集まって飲み食いしながらバンドやったりして話したりで。
つくづく好きな音楽を続けて来たから、こうやって世代が違っても集まって話したり出来ることに感謝というかありがたいな〜と思いました。
ベースのSは昼間、僕と二人っきりであれこれ話せて嬉しかったですなんて言ってくれて、僕もいろいろ話せて嬉しかったし、楽しかったです。
人の巡り合わせって、本当に不思議だな〜と思いました。
メンバーもそれぞれ所帯持って、嫁さん、子供がいて、子供が小さいと急病になったら病院に連れて行ったり、ちゃんと親の務めをしながらでも、僕が実家に帰って来るとみんな集まってくれて、大した自分じゃないのに僕のことを慕ってくれるのにはほんとに感謝してます。
良い仲間も持って嬉しいです。
居酒屋でいろいろ話して、「今度はまたお盆にでも!」と言って別れてまた家帰ったのが午前2時でした。
次の日仕事の人もいたりで、みんな元気だな〜と思いました。

5月6日(土曜)
また朝10時頃起きて、風呂入って、昼ご飯をおかあと食べて、あっという間の3連休もきょうでおしまいで、昼過ぎに荷物をまとめてたら、おかあが一昨日買い物した食材の余ったのを「ひろしくん、これ持って帰り!」と。
おかあも沼津のおねえの家に行くので、家に置いておいても仕方がないからということで食材を車に積んで。
おかあを沼津のおねえの家に送って、いつものように僕が車で帰るのを道路脇に立ち、いつまでも手を振ってました。恒例の風景です。
「着いたら電話して〜よ!」と。
沼津インターから高速道路に入って、7時ちょい前に大垣に着きました。
おかあに会いたい一心でいつも盆正月GWと帰る自分。
おかあ(73歳)もパーキンソン病なので、次に会う時は変わりないか?自分の目で見て確認したいがために帰るようなものです。
おかあも「おかあちゃんもいつボケるか?わからんで。ボケたくないけど」と。
身体がだるかったり、息苦しかったり、足が痛かったりとかあるみたいで、自分がそうなったことないので、おかあの身体がどんな状態か?わかりませんが、意識がはっきりしてるうちに帰れる時に帰って顔を見せてやろうと思ってます。
本当はおかあは沼津のおねえの家に行きたくないけど、一人で生活してると調子悪い時に一人で居ることが不安だからというのと、おねえが大変な思いして主婦業、パートで働いたりで子供3人もいるから、ちょっとでもおかあはおねえを助けてやろうと思って行ってるようなものです。
おかあは、「ほんとなら、ひろしくんがおかあちゃんと住んでくれるといいんやけどな〜」と言われましたが、実家の町には僕が働けるような仕事がないのと、あっても給料が安過ぎてやっていけないので辛い所です。
僕はおかあが元気で生きててくれるだけでありがたいし、おかあも僕が元気で暮らしていてくれるのをいつまでも願っていて、あと僕に良い彼女が出来る事を切に願ってるようで、それを言われるとなんとも返事のしようがないです。
どこの親も同じだと思いますが。
親と離れて暮らしてるから、余計に親の存在がありがたく思います。

すっかり長文になってしまいました。
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by gohonngigoro | 2006-05-06 21:49 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(6)
2006年 04月 29日
おとうの誕生日
昨日は夜間仕事で午前2時に家帰って来て、今朝は8時から昼過ぎまで仕事でした。
きょうはおとうの生きてれば74歳の誕生日です。
仕事から帰って来て、遅めの昼ご飯食べて、僕のアパートから車で30分くらいの家の先祖が眠っているお墓にお参りに行って来ました。
お墓までの道のりを車で走ってると、辺りは田んぼがあって、もうすぐ田植えの時期みたいで、あちこちで田んぼに水が張ってありました。
11歳まで住んでたその町の昔、家が店出してたショッピングセンターでお供え用の花を買いました。そのショッピングセンターは30年前にオープンして、当時はその辺りでは珍しかったけど、30年も経つとさびれて、今じゃお年寄りか近所の人しか買い物に来ない閑散たるショッピングセンターになってました。
家の店は食料品売り場にあったんですが、改装されて今はあとかたもないです。
小学生の頃、学校から帰ると自転車に乗って、ショッピングセンター内のおかあが働いてる店に行って、「おかあちゃん、腹減った!」と言って鶏のモモ焼きを2、3本食べてました。
昔はゲームセンターもあって、コインゲームやったりして、警察に2回ほど補導されました。
月日の流れを感じました。
その後コンビニに寄って、おとうに供えるお菓子なんかないか?と探して、豆大福とおとうが好きだったゼリー・ビーンズとペットボトルのお茶買ってお墓に行きました。
墓石が黄砂で砂埃が付いてたので、水道の所にやかんがあったので水を汲んで、手で擦って洗い流してやりました。
花とお菓子とお茶を供えて、ろうそくと線香に火をつけて、手を合わせて心の中でおとうに
「おとう、誕生日おめでとう。おかあももう少し長生きできるように見守ってて下さい。不甲斐ない末っ子ですいません。また命日に来るわ!」とお参りしました。
おとうが好きだった、たばこも1本火をつけて、吸わせてやりました。
お参りが済んで、車に乗ってからおかあに電話して、
「きょう、おとうの誕生日だから、お墓にお参りしに来た。」と言うと、
涙声で、「おとうちゃん、ひろしくんのこと、いつもかわいい所あるで憎めんと言っとった」
「おとうちゃんも喜んどるやろ」と。
僕もおかあの声を聞いてたら、思わず涙ぐんでしまいました。
気持ちがすっきりした感じでした。

帰り道、昔'91年におとう、おかあ、伯父さん、伯母さん家族、おにい家族、おねえ家族、僕でおじいさんの十三回忌とプロ野球の叔父さんの三回忌も兼ねて墓参りに来た時、
おとうは'80年に家業が倒産して僕ら家族が夜逃げしたので、おじいさん、おばあさんや先祖に申し訳ないからと言って、車から下りなかったのを思い出しました。
家ではいつもおとうは仏さんにお参りしてたけど、お墓の前にはお参り出来なかったのはおとうの生真面目で信心深い性格が表れてる気がしました。
僕はその分、兄弟の中で一番お墓に近い所に住んでるので、「おとうの代わりによ〜くお参りさせてもらうよ!」と心の中で思いました。
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by gohonngigoro | 2006-04-29 16:33 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(0)
2006年 04月 08日
ブログ1000件目の投稿
気がついたら、このブログで1000件目の投稿になります。
999件の時点で1000件目は何を書こうか?
音楽?映画?自分のこと?と悩んでたら日が経ってしまいました。
その間に過去に書いた記事を読み返したり感慨深かったです。
自分のその時その時の思いや精神状態を思い出してました。
よくぞこれまでこんなにあれこれ書いたものだと我ながら思いました。
何も書かないで、更新してなくても毎日30〜60人くらいの人が見に来てくれて。
訪問者も4万8千人を越えました。
僕のブログ右のカテゴリの「小説みたいなもの(自伝)」を読み返したら、
リリー・フランキーの「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」のようだなと思いました。
僕はそんな長い小説書くほど、文才はないと思ってるので、ちょっと見習いたいと思いました。
言葉のボキャブラリーや比喩というのか?状況説明というか?
小さな出来事でも大きく書くのとか?1の出来事を10くらいで書くとか?
描写って言葉もすぐ出て来ないのも頭悪い証拠です。
僕も真似して書いてみようか?とも思ったりします。
架空の物語書くより、自分の周りのこと書くのが手っ取り早い感じがするので。
でも書くにしても、いろんなエピソードがないとおもしろくありませんが。
僕の生い立ちは普通に暮らしてる人より波瀾万丈だとは思うので。

昨夜たまたまテレビを付けたら、リリー・フランキーがトーク番組に出てて、
なんか自分と似た境遇だったんじゃないか?なんて自分なりに思った。
僕も親に言えないことや、人様に言えないような後ろめたいこととか、
しょうもないこといっぱいしてきてます。
番組は途中から見たんですが、リリー・フランキーも売れる前は消費者金融に借金して、
いつも返済が遅れて怒鳴られたりしてたそうで。
でも完済した時、それまで怒鳴り散らしてた消費者金融の人も丁寧に
「御完済ありがとうございました。又のご利用をお待ちしております」
あと利息を払い過ぎてた分を返してもらったとか。
お金がなくて、アパートの電気、ガス、水道とかも止められたとか。
僕はそこまでなったことないですが、電話は止められたことあります。
僕が東京でバンドやってた頃、お金なくて電話を止められて、メンバーから僕の所に連絡出来なくて、はがきで連絡して来たり。
お金がなくて、泣く泣く好きなアーティストのCDを中古CD屋に売りに行ったり、大切なギターを質屋に入れたりしました。
冷蔵庫にはタマゴとソーセージくらいしかなくて。
おとうやおかあにも相当心配かけまくりでした。
そんなおとうも月日が経ち、もうこの世にいなくて、おかあだけです。
僕の心のふるさとは。


リリー・フランキーも昔、バンドをやってて、ファンの人達に次のライブを告知する為にダイレクト・メールを送るのに、ただ日時を告知するだけではおもしろくないからと、バンドの会報みたいに勝手にコラムみたいなの書いたり、外国のアーティストと架空の対談してるのとかを書いてたら、それを見た音楽雑誌の人が、「音楽誌でコラムかいてみないか?」と言われ書く仕事をもらったと言ってました。
それからいろんな仕事が来るようになった時、初めての仕事でも、
「全然得意です。」と言って、仕事を受けてから勉強したりしたと。
「おでんくん」なんて絵本を描き、アニメにもなったり、「東京タワー」で自伝的小説描いたり。なんて肩書きの多い人なんだと。

人生、どこでそういうチャンスが巡って来るか?わからないものだと思いました。
一生くすぶって終わるか?
ちょっと先を越されたような気分です。

なんだかよくわからん投稿になってしまいました。

また今年も一本桜の桜が咲いてました。
雨が降ろうが、風が吹こうが、
一本桜は今年も咲いてました。
僕が生まれるずっと前から、、、。

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by gohonngigoro | 2006-04-08 01:23 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(9)
2006年 04月 01日
旅立ちの頃
4月です。桜の咲く頃。
もう春の到来です。
春と言えば、始まり、旅立ちのイメージです。
遠い昔、自分も18の時、高校を卒業して3、4日経って卒業気分も覚めやらない頃に、
西伊豆の片田舎から東京へ上京しました。
おとうにライトバンで荷物を東京まで運んでもらって、
僕は一人、新幹線で東京に向かいました。
僕が卒業前の2月におにいは結婚して、青葉台の嫁さんのアパートに一緒に住んでたので、
僕はおにいの中目黒の6帖一間の風呂なしアパートに転がり込む感じでした。
築30年くらいで家賃2万6千円でした。共同トイレで。
東京に上京した日に、おにいに銭湯のある場所やコインランドリーとか案内してもらいました。
僕はギターと着るものくらいしか持って行きませんでした。
冷蔵庫もなく、電子レンジもなく、フライパンもラーメン鍋もなく。
テレビはおにいが使ってた古い大きなテレビがありました。布団もおにいので。
その時代、風呂付きアパートに住んでる若者はあまり多くなかった時代でした。
アパートは2階で下がスナックで夜になるとカラオケの音が鳴り響き、
すぐ横の道路をトラックとか通るとぐらぐらアパートが揺れたりして、
引っ越してしばらくなかなか寝付けませんでした。日が経って、
だんだん慣れていきました。
アパートの隣りの部屋には、アパートの1階で靴屋をやってる夫婦が住んでて、
小さい子供も三人いて、家族5人で6帖の部屋に住んでてびっくりでした。
その夫婦は学生時代からずっとそこに住んでたみたいで驚きでした。
おにいはその頃、銀座マキシム・ド・パリでパテシエをしてたので、
その製菓部長の紹介で大手町にあるフランス料理レストラン&洋菓子もやってる店に就職しました。
卒業式終わって、一週間もしないうちに僕は働き始めました。
最初はギャルソン見習いで、お客が食べた料理をさげるのやビールや水をついだり。
黒服着て、髪の毛もムースでオールバックにして、見た目ドラキュラみたいでした。
高校出たばかりで仕事場にスーツ着て出勤してました。
まだネクタイを締めるのも慣れない頃でした。
日比谷線で中目黒から霞ヶ関で乗り換えて、大手町まで。
仕事終わって、厨房で働く先輩とかに飲みに連れてってもらって、終電がなくなって、渋谷から中目黒まで歩いて帰ったこともありました。
246から山手通りをとぼとぼ歩きながら。30〜40分くらいの距離でした。

やがて同期の入社の連中もあとから入って来て、そのレストランが他で経営してる広尾の喫茶店&ケーキ工場、白金にあるケーキ売り場、渋谷西武の地下のケーキ売り場、池袋西武の5階だか?6階だかにある喫茶店を研修期間として、新入社員の僕らは転々とさせられました。

大手町のレストランに勤務してた時は、賄いメシも新入りだから、遠慮してちょっとしか食べずにいたので、ランチが終わって夕方まで休憩に入ると腹減って、面倒見の良い先輩のギャルソンの人が「そば食べに行こう!」と神田の駅のガード下にある4、5人座ったらいっぱいになるようなそば屋によく食べに行ってました。

広尾の喫茶店に配属された頃は、場所柄、芸能人を見る機会もありました。
高中正義、糸井重里とか。
コーヒーの入れ方もまだ手慣れてない時で、常連の花屋の女社長がいつもコーヒー飲みに来て、まずいコーヒーを入れた時は全然飲まずに帰ったり。
俳優の清水章吾を若くしたみたいな上司によく、お尻蹴られたりしました。

広尾で勤務の時は白金のケーキ販売店にも一人で行かされて、そこに当時25歳の人妻のパートのきれいな奥さんがいて、たまに一緒になると話相手になってもらいました。
のちに僕が中目黒のアパートから五本木に引っ越す時、引っ越しの手伝いに来てくれました。

渋谷西武の地下でケーキ売ってた時は、そこにも可愛らしい当時21歳の販売員のおねえさんがいました。よく御飯食べに連れてってもらったりしました。
隣りの売り場がTOPSというチョコレート・ケーキの売り場で、そのTOPSの販売員のおねえさんとも仲良くさせてもらいました。
一緒に昼ご飯食べたり。

地下の売り場には、ベーグル・パンを売ってる僕と同い年の男の子もいて、仲良くなって休憩の時、屋上に行ってベーグル・パンをちぎってハトにあげたりやってました。
数年後、僕がバンドでライブやる時、その彼は見に来てくれました。

池袋の西武に勤務の時、そこは軽い食べ物も出したりしてたので、初めて厨房で働いたりしました。
ほとんどは大手町のレストランで作ったものをレンジで温めて出してたんですが。
パフェとかも作ったり。
お店の向かいのアンティークの店の24歳のきれいなおねえさんとも仲良くなって、そのおねえさんはバンドをやってたので、スタジオでバンドで合わせたり、御飯食べに行ったり、仲良くさせてもらいました。
僕はどこに行っても年上の女性によく可愛がってもらいました。
その頃、池袋の店にアルバイトで来てた、僕より一つ年上の山脇学園の短大生と、その後、僕はその彼女と付き合いました。
京子ちゃんと言って、僕は本名がひろしなので、ひろしと京子だと「ど根性ガエル」みたいだなと思いました。
仕事終わったら、近くのお客があまりいない喫茶店でチュッチュッしてました。
池袋の自動改札の所でも人目をはばからず、キスして別れたり。
彼女の家に電話する時は彼女に夜10時ぴったりに電話するからと言って電話すると、お父さんが彼女の電話口のそばに立って不機嫌そうにしてたりで。
僕が大手町勤務の時、休憩時間に彼女が会いに来て、
レストランのビルの屋上でもチュッチュッしたり、神田の街を肩組んで歩いてたら、
レストランの支配人に偶然見られたり。(苦笑)
青春してました。
3ヶ月くらいの短い恋でしたが。
まだ携帯電話もない頃です。

今思い出すと、18歳の頃が懐かしいです。
もしもタイムマシンがあって戻ることができるなら、また18歳の頃に戻りたいです。
今の自分の不甲斐なさを思うと人生やり直したいです。
1987年の時代に、、、、。
無理な話ですが、、、。
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by gohonngigoro | 2006-04-01 18:27 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(2)
2006年 01月 23日
味噌汁の味
子供の頃、母親の実家に遊びに行って、母親の両親も健在だった頃、
田舎の古い家で、おじいさんはいつもふんどし履いてて、
頭もツルッパゲで大工で大酒飲みでいつも顔を真っ赤にして日本酒を
「グビグビ、プハッ!」と飲みながら(はじめ人間ギャートルズのおとうみたいに)
笑い声も「ガハハハハ!」と豪快で。
毎朝、家の裏に井戸があって、バケツで水を汲んで顔洗って。
風呂も五右衛門風呂で、ものすごい深い樽で、
子供の頃その風呂に入るのに深過ぎて僕はまたげませんでした。
おかあにだっこしてもらって入れてもらいました。
おじいさんはいつも家の裏で斧で「おりゃっ!」と薪を割って。
かまどがあって、味噌汁とか作る時、薪をかまどに入れて炭の香りと煙りで独特の
味の味噌汁がすごくおいしかったのを思い出します。
岐阜の関ヶ原の近くなので、味噌汁は赤味噌です。
最近そういうかまどで作った味噌汁が飲みたくなりました。

昔、おかあの両親が僕らの家に遊びに来た時は、当時家は鶏肉屋をやってたので、
鶏のもも焼きとか食べながら、「美味い、美味い!」と言いながら、
ビールや日本酒をぐびぐび飲んでたのが懐かしく、ふと思い出しました。

昔の記憶が蘇ってきたので書いてみました。
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by gohonngigoro | 2006-01-23 09:10 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(0)
2006年 01月 23日
おばあさんが植えた榊
昔、僕が生まれて11歳まで住んでた家の横に神社がありました。
そこの境内の裏にうちのおばあさんが植えた榊が今でもすくすく育って、
高くそびえ立ってます。
去年の夏、おとうの命日にお墓参りに行ったついでにふと、その神社に行きました。
子供の頃、近所の友達と野球したりして遊んだ頃を思い出しました。
境内の裏に行くと、おばあさんが植えた榊が今も高くそびえ立ってました。
おばあさんは僕がまだ1、2歳の頃亡くなってるので、
以来、その榊は雨の日も風の日もずっと生き続けてます。
人間は寿命があるけど、植物はタネをまいてよほどのことがない限り、
誰に肥料を与えられるわけでもなく育っていきます。
おばあさんの神様を大事に思う気持ちが宿ってる気がして、
僕はその榊に手をあてました。
おばあさんが生きてた頃、僕は赤ん坊だったので、
おばあさんの記憶はほとんどありませんが、榊に手をあてて、
少しでもおばあさんの気を感じられたらと思いました。
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by gohonngigoro | 2006-01-23 08:19 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(0)
2005年 11月 11日
18×2
早いもので18年親と暮らして、その後一人暮らしで18年経ちました。
正確には親の元を離れて19年目ですが。
来週でまた一つ年を取ります。
僕の故叔父ちゃん(元プロ野球選手)が20年間現役やって引退したのが38歳だったので、あと1年で僕もその年になります。
そう考えると、自分の人生充実してたのか?と思うと全然ダメだな〜と思います。
いつ死んでもいいような悔いのない充実した人生を送りたいと思います。
期を逸した感があるのは今さらしょうがないですが、残りの人生でなんとか挽回したいです。
何が幸せか?自分は何をしてる時が一番楽しいか?というのが充実感の元ですが、それは人それぞれ違うと思うので、あまりあれこれ考えず、がむしゃらに生きるしかありません。あれこれ考えてしまうタチなので。。。
やがて自分の人生の終わりが来た時、「あ〜楽しかった。じゃぁね!」と逝きたいものです。
いかりや長介じゃないけど、「次行ってみよ〜!」って。
自分なりの人生哲学でした。
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by gohonngigoro | 2005-11-11 23:43 | 小説のようなもの(自伝) | Comments(0)